左から柱谷哲二、三浦知良、高木琢也【※写真は1993~94年のもの】

写真 :Getty Images

遠い日の記憶 アジアカップへ向けて

Writer佐藤文孝

Jリーグの開幕を翌年に控えていた日本サッカー界。その頃、迫るプロリーグへの意識は薄く、毎年冬、茶色の芝生の上で行われていた高校サッカー選手権、または12月の日曜日の昼間にテレビで見ていたトヨタカップという試合が自分にとってのサッカーというスポーツだった。そんな自分は突如として視界に飛び込んできた「日本代表」という存在に心が惹かれていく。

初の外国人監督ハンス・オフトに率いられたサッカー日本代表はこの年、広島で開催されたアジアカップで初めてとなる優勝を遂げる。カズ、高木、中山といったタレントぞろいの攻撃陣と井原、柱谷、松永等が統率するディフェンスはすでに他のアジア勢を凌駕する実力を発揮しており、現日本代表監督の森保一も若干23歳にして日本の中盤を支える存在として既に頭角を現していた。

ただ、加速し続け台頭した日本代表にも決して小さくはないウィークポイントがあったことも、この優勝の陰に隠れていたのではないか。

翌年のJリーグ開幕直後に起きたベテラン・都並敏史の負傷離脱が日本代表にとって最後まで大きく響くなど、レギュラーメンバー11人は殆ど替えが利かないというチーム事情がまだ当時の日本サッカーの選手層の薄さを物語っていた。W杯アジア最終予選の「ドーハの悲劇」まで、アジア内での戦いの駆け引きの必要性や、何より世界への扉の本当の意味での重さもまだ目の当たりにすることは無かったと言える。

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